西山さんのブログ。
舞城王太郎という人を私は知らず、この間の西山さんの、今度の劇のためのプレゼンという奇天烈なパフォーマンスを観て、面白そうだなと思った。今度読んでみようと思ったし、なによりこの劇がとても楽しみだ。さて、前置きはさておき、お正月だから、「にしやまかるた」をつくってみよう。まずは「にしやままき」の「に」。「に」の西山真来は、「人間としての西山真来」である。からだもおおきいけれど、人間の規模もおおきいと思う。人知れず落ち込むときは鴨川を眺め、荒涼としたイメージを鴨川に現出させ、いちゃつくカップルどもを冬将軍で翻弄するのである。そのときの西山がるたを読む係の人のせりふは、腹式呼吸で低い声、エセ相田みつを風に「にんげんだものな、の、に」である。「し」の西山真来は、「死人としての西山真来」である。死んだ西山はある日京都市の中空に殲滅された使徒のように漂っていた。京都市民が、西山、西山、西山、と声をかけても西山はこまかく砕かれ、しかも煙状の粒子ほどであるゆえ、名前の認識ができず、間違えて東山と叫んだ小堀さんのようなオヤジにびびっと少し光ってみせるのがやっとだった。まるで、季節はずれの雷のように。そのときの西山がるたを読む係の人のせりふは、エコーをかけ、擬人法を用いて囁き声で「しんだんやおもいまふー、の、し」である。「や」の西山真来は「役者取り締まり官としての西山真来」である。常々バイトをしながらの役者の役者気取りに業を煮やしていた京都市は、とうとう役者の取り締まりに乗り出した。どっちつかずの二重性に不寛容な世相とあいまって市民のあいだでも特に小劇場系の役者に対して極右集団のようないやがらせやリンチまがいの役者狩りが横行し、役者取締官に任命された西山真来はその防止も含め、正当なる役者の取り締まりを実行したのである。そのときの西山がるたを読む係の人のせりふは、「なんとなーくやけど、わたし、自分のことを、抵抗なく、役者でーすとか、俳優やってますーとか、なんか、平気で言える人が、めっちゃめっちゃ、う、うらやましー、あれ、あれ、あれ、こんなん言うつもりでなかったのにー、の、や」である。つまり西山真来には、他人に対し軽蔑したい感情があっても、その出力回路が身体に備わっていなかった。「ま」の西山真来は「マスクとしての西山真来」である。風邪をひいてちょっとテンション低めなのである。そのときの西山がるたを読む係の人のせりふは「マスクはぜったいMUST。おおごとになるまえの風邪退治、の、ま」である。もうひとつの「ま」の西山真来は「曼荼羅としての西山真来」である。朝陽と思いきや東山からのぼったのは曼荼羅状の西山真来だった。それはそれは、えも言われぬさまざまな色の曼荼羅かと思いきや、その曼荼羅は基本的にピンクだった。一瞬にして京都は右京区の方までピンク色に染まった。そのときの西山がるたの読み手のせりふは、ちょっとお色気風味に大阪弁で「まんだら、の、まぁ」である。「き」の西山真来は「キスとしての西山真来」である。いや人類愛としての、と言おうか。キスとしての西山真来はそのときまっさらなスケープゴートである。手を、唇を、それどころか全身を見境のないキスに差し出すのである。世界への接吻というより、世界への献体である。この場合の見境のないキスとはなにか。具体化されたイメージとしては誰かれとなくキスしまくる江頭2:50である。江頭は橋田壽賀子の唇にもダイブした。その投身的接吻力こそが人類愛であると言えば言い過ぎか。いずれにせよ鳩山首相の友愛とは格が違うのだ。そのときの西山がるたの読み手のせりふは「キスキスキスキスキスキスキスってずっと言ってたらスキスキスキスキスキスキスキスキって聞こえへん?の、き」である。あと「狂気としての西山真来」のことも考えたがきりがないのでもうやめる。こんなに遠くまで来て、私は今イスラエルのテルアビブでこれを書いているのだが、そこで、そのことがやっとわかったのだが、ただ西山かるたをつくるほどに日本の正月が恋しかったということなのかもしれない。
いやいや、なによりも言いたかった事は、西山さんはニュータイプの俳優さんである、という事である。本気でこの国で(日本で)演劇を続けるのであれば旧来の舞台俳優という職能(のイメージ)に対しては批判的にならざるをえない。なんか、自己流に俳優っぽい人々にはまったくリアルさを感じないし、メソッドみたいなものにおぼれている俳優さんたちも気の毒だ。そういう意味では西山さんのことを思うと、俳優である以前の問題がとても大きい。そもそも俳優であるから演技するのではないのである。いまや「俳優」であることはこれからの演劇には邪魔でしかない。宇多田ヒカルも女はみんな女優って歌っているではないか。この時代俳優性のない人などほとんどいないのに、なんで屋上に屋上を重ねるようなことをするのだろう。誰かが誰かを演じることさえあればそれでいいのである。自分が自分自身を、でもいいわけである。そう考えれば、今回のこのタイトルは、もうすでに彼女が西山真来でしかなかったことへの挑戦のようにも思える。西山真来が西山真来しか演じようのないことへの。西山真来が俳優であることより、ものごころついたら西山真来であったことのほうが重大であり、おそろしいことなのだ。西山さんからびっちり張り付いて取れない西山真来のことを考えねばならない。
松田正隆
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